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祭りいくよ!

日本には心沸き立つ、すばらしい祭りがたくさんあります。お囃子、太鼓、山車が走る、花火大会。日本の心。日本の祭 2013。

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都内随一の大きさを誇る千貫神輿で有名な「鳥越の夜祭」

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開催日程:平成25年6月8日、9日
        8日  大祭式  10時     
        9日  宮出     6時30分
宮入    21時             
開催場所:鳥越神社
 鳥越神社の宮神輿は「一千貫」と称し、都内随一の大きさを誇っています。日曜日には、この神輿を氏子たちが担ぎ、町内を練り歩きます。夕刻、神輿の弓張提灯と町会の高張提灯に火が入ると、祭りは最高潮を迎えます。この宮入道中は、「鳥越の夜祭り」と言われています。

引用元:鳥越祭 台東区ホームページ 
鳥越神社は東京都台東区鳥越にある神社で、白雉2年(651年)日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まりといい、前九年の役征圧のため源頼義、義家父子が当時の蔵前を通ったときに、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川と呼ばれる隅田川を渡ることができましました。

永承年間(1046〜52)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることが出来たということから鳥越大明神と名づけた。



すごくこじんまりと神社なのですが、なんと江戸時代までは約2万坪の広大な敷地だったけれど、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられてしまったそうです。

しかし、そのでかい神社の名残を伝えるのが、都内一とも言われるデカい神輿!千貫神輿とよばれるそれは、祭礼などで使用される神輿のうち特に大きいものをいいます。

青梅大祭は、甲州裏街道とも呼ばれる青梅街道の宿場町青梅の最大の祭り

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青梅大祭(おうめたいさい)は、「住吉大明神の御祭礼」と言われいたが、その後「住吉御祭礼」になり、現在は「住吉神社青梅大祭」と呼ばれています。600年の歴史を持つ青梅の大祭は、神輿が中心であったが、喧嘩が絶えないため、明治になって山車が作られたといわれています。

平成25年の青梅大祭は、5月2日~3日に盛大に挙行されました。

引用元:ごあいさつ
江戸時代後期には既に町内単位で祭礼が行われていたが、明治に入り、東京で運行できなくなった山車を買い付けて曳き回すようになったのが、青梅大祭の始まりだといいます。使えなくなった山車は、青梅市、川越市、熊谷市、鴨川市などの江戸周辺の地方都市に売り払われたため、今となっては貴重な江戸・天下祭の山車人形(だしにんぎょう)は、これらの地方都市に行かないと見ることができなくなった。

青梅は、商業で栄えた一大宿場町です。青梅の鎮守様である住吉神社の祭礼は江戸時代後期に既に行われていたことが確認されており、それは町民主体の祭礼行事でありました。神輿、芝居興行などが賑やかに行われ、遠方からも人が集まり、当時の紀行文に掲載されるほどの有名な祭だったようですが、公儀の取り締まりを避けるために公式的な記録は残されず、詳細はほとんど伝わっておりません。

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多摩川の左岸(北側)を走る青梅街道に沿って細長く広がる青梅市は、江戸時代、商業で栄えた一大宿場町であった。機織物で栄えた古くからの祭礼町であった旧青梅の市がたっていた宿(しゅく)の住江町(宮本)、本町、仲町、上町、森下町)にて行われていたようです。

青梅宿の総鎮守である住吉神社の氏子5町内(住江町すみえちょう・本町ほんちょう・仲町なかちょう・上町かみちょう・森下町もりしたちょう)(旧祭礼町)が江戸型山車を購入し、しばらく巡行していたが、やがて青梅にも電線が張り巡らされるようになると、人形を下ろし、山車は屋台の形式に改造されました。

その後、旧祭礼町以外の住吉神社氏子4町内(滝ノ上町たきのうえちょう・天ヶ瀬町あまがせちょう・大柳町おおやなちょう・裏宿町うらじゅくちょう)、戦後には氏子外3町内(勝沼町かつぬまちょう・西分町にしわけちょう・日向和田ひなたわだ)が加わり、現在は12町内が青梅大祭に参加しています。

出発の合図が様式化され、豪華な祭り衣装をまとった拍子木は憧れの大役であり、独自の発展を遂げてきた青梅大祭の一つの特徴である。

機織物で栄えた古くからの祭礼町であった旧青梅の市がたっていた宿(しゅく)の住江町(宮本)、本町、仲町、上町、森下町の五町の豪商などが、江戸の人形が乗った三層高欄を東京・神田などから購入し祭りの華となっていた。

戦後祭りは盛んになり、五町に加えて滝ノ上町、大柳町、天ケ瀬町、裏宿町の四町も山車を作り、その後昭和25年頃からは、青梅市に隣接する村の勝沼、西分、日向和田も住吉神社の祭礼に合わせて山車を曳くようになり全12台の豪華な山車の曳行が始まった。

当時の山車は二重高欄に、原舟月、仲秀英など江戸一流の人形師の手による人形を載せたものだったが、電化に伴い巡行が困難になり、明治43年の祭礼を最後に鉾台型山車から屋台型山車に改造されました。

祭りの舞台となるのは、旧青梅街道の一本道で両脇には多くの出店が並び、道の各所に祭礼事務所(神酒所)や山車人形を飾った人形場があり、あちこちで交わされる挨拶、曳行される山車、色々な提灯に飾られた懐かしさを感じる町並みなど、この一本道にさえおれば祭りを見逃すことなく楽しめるという安心感と、一本道に集中している興奮を味わえます。

武蔵国府祭とも呼ばれた「くらやみ祭」 六張の大太鼓と八基の神輿がその勇壮さを競う

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くらやみ祭
Photo:くらやみ祭 By Yasunari Goto

大國魂神社の「くらやみ祭り」胸を貫く大太鼓の振動、止むことのない祭囃子、70万人に膨れ上がる夜祭りの喧騒や熱気。この例大祭は4月30日の潮盛に始まり、5月5日のみこし渡御を経て、6日のみこし還御に至る神事の総称です。

4月30日 くらやみ祭 ~5/6
大祭中は、品川海上禊祓式、祈晴祭、競馬式、鎮座祭などが行われる。大國魂神社最大のお祭り。

引用元:くらやみ祭|5月のお祭り|厄除け・厄払いは大國魂神社(東京・府中)
品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)は「汐盛り」とも呼ばれる神事であり、神職一行が品川海上に出て身を清めるとともに、清めの汐水を神社に持ち帰り、大祭期間中の朝夕潔斎時にはこの汐水を使用します。

競馬式(こまくらべ)のいわれ大國魂神社例大祭は、4月30日より5月6日迄の間に、 様々な行事が執り行われるが、 5月3日夜行われるこの式は、往古国司によって行われました。

現在は午後7時騎士6人が馬を牽き、神社に集合し、関係者一同はお祓いを受けた後、社前に整列し、一之駒より順次欅並木の馬場に向かいます。

くらやみ祭のメインといわれる花火の合図とともに6張りの大太鼓が打ち鳴らされ、祭の最大の見所である「おいで」と呼ばれる御輿渡御が行われます。

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かつて5日のみこし渡御は、深夜、街の明かりをすべて消した暗やみの中で行われたため「くらやみ祭」と呼ばれ、親しまれています。

この祭りは、かつておびただしい数の提灯が所狭しと建てられたことから「ちょうちん祭」、また、御本社神輿と御霊宮神輿が本殿から出発して御旅所で出会うことから「出会い祭」などとも呼ばれています。

古くは武蔵国中から神主が集まり国の安泰を祈願する「国府祭」を起源として、現在は御輿渡御や太鼓の響演等賑やかに行われています。

中でも六張りの大太鼓と八基の御輿が練り歩く五日の御輿渡御は昭和三十年代まで夜中に明かりを消して行われていたことから「くらやみ祭」の名前が付いた。

「狛江のぶ厚い史書を読みましたら、くらやみ祭の御霊神輿を担いだのは理由は知らないが狛江・伊豆美神社の氏子のみであったという風習がありましました。

3日間で150万人の人出が見込まれる「三社祭」は、東京の初夏を代表する風物詩

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三社祭 浅草、東京。Sanja Matsuri
三社祭 浅草、東京。Sanja Matsuri / Ari Helminen


浅草神社の三社祭は、正和元年(1312)から三社の神話に基づき船祭が始められたと云われています。
江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置されました。びんざさら舞も堂前の舞台で行われていました。そのことからもわかる通り、当時は浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれました。

平成25年度三社祭日程/5月17日(金)・18日(土)・19日(日)

引用元:浅草神社 | 三社祭 | 日程
祭礼は今のように本社神輿をかつぎ廻ることよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、各町がおのおのの趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合ったようです。

これが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂からおろし、一之宮を先頭に浅草御門の乗船場まで担ぎます。

待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿をのせ、浅草川(隅田川)を漕ぎあがって駒形から上陸し、浅草神社にかつぎ帰ったと云われています。

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明治に入って廃絶し、明治五年から5月17日、18日の両日に祭礼を行い、現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになりましました。

浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約100基が浅草寺裏広場に参集、一基ずつ発進し、浅草神社でお祓いを受けた上で各町会に渡御します。

その後、本社御輿が各町会を渡御する「本社神輿各町渡御」を経て、夕刻に浅草神社へ戻る「宮入り」となります。

しかし、戦災により四之宮(明治初年、田町で新調した東照宮の神輿)を含む新旧7基全てを惜しくも焼失してしまいましました。

現在の神輿は氏子四十四ヶ町により、一之宮、二之宮が昭和25年に、三之宮が昭和27年に奉納されたものです。

神社でおはらいを受けた後、次々と渡御に出発し、担ぎ手たちは汗だくになりながら「エッサ、オイサ」の掛け声を出していた。

ウィキペディアによると浅草神社は明治に入るまでは浅草寺と一体であり、この時代には浅草寺の祭りとして行なわれていた。

神仏分離によって浅草寺と分離してからは浅草神社単体での祭りとなり発展したが、これは明治に入って以降のことである。

下町情緒あふれる浅草の町並みの中、多くの観光客とカメラマンであふれかえる沿道を、威勢の良い掛け声をあげながら神輿を担いで練り歩く江戸っこたちの姿は、勇ましい限りです。

2年に1度の開催が恒例の「神田祭」艶麗で古風な行列と都心の町並みの対比は見事

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DSC_0546
DSC_0546 / Marufish


神田祭は神田明神の最も大きな祭りで、2年に一度、本祭(ほんまつり)が行われ、神田明神の神輿三基が氏子108町会を巡行(神幸祭)し、一方で氏子の町神輿約200基が神田明神を目指して宮入りします。

平成25年神田祭日程一覧です 【日程】
5月 9日(木)夕刻    鳳輦・神輿遷座祭
  10日(金)夕刻    氏子町会神輿神霊入れ
  11日(土)終日    神 幸 祭  
  12日(日)終日    神輿宮入 
  14日(火)午前11時 献茶式(表千家家元奉仕) 
         午後6時  明神能・幽玄の花(金剛流薪能、有料)
  15日(水)午後2時  例大祭

引用元:神田祭|日程【神田祭日程、イベント一覧】
「天下祭」として知られる神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われ、延宝年中までは毎年行なわれていましたが、山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年となり、今の2年に一度が恒例となりました。江戸幕府の庇護を受け、江戸城内に入り、徳川将軍の上覧を得た為に日枝神社の山王祭りとともに天下祭りと呼ばれ、日本三大祭り・江戸三大祭りの一つにも数えられています。

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明治に入り山車は次第にに減少し明治22年を境に不景気と電線架線などの影響から、山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなりました。明治25年の神田祭より、台風・疫病流行の時期を避けるため、祭月を9月から5月に変更し、今日まで5月に行なわれるようになっています。

大正時代に入ると山車が出されることはほとんどなくなり、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと変遷していきました。渡御祭は、数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭で、長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われました。正8年、2基の神輿を鳳輦1基に改めた。残念ながら、この鳳輦は大正12年の関東大震災により焼失してしまい、たった1度の渡御しかしていません。関東大震災後、幾度か渡御祭は延期され、昭和5年に復活し渡御祭の行列では一の宮仮鳳輦(御羽車)と二の宮神輿が渡御しました。

現在は高層ビルに囲まれ、晴天でもあまり陽が入らないビルの谷間な環境ながら、「そこだけ突然に・・・」 といった異彩を放つ場所になっています。



これぞ江戸の祭りという注目イベントが「神輿宮入」。神輿の宮入は氏子町会がそれぞれの町名を染め抜いたハッピを着て、それぞれの町の神酒所から神田明神へお祓いを受けにやって来る。100基の氏子町会神輿がおおよそ決められた時刻に神社へ練り込み宮入参拝します。ふんどし姿の担ぎ手も多く、「神田っ子」の熱気と興奮でいっぱいになります。

城下町村上ならではの勇壮にして華麗な祭り「村上大祭」 彫刻を施し、村上伝統の堆朱・堆黒の粋をこらしたオシャギリが曳きだされる

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寛永10年(1633年)に、当時の村上藩主・堀直竒侯が「西奈彌羽黒神社を城から見下ろすのは畏れ多い」として臥牛山の中腹から現在の場所へ移し、それをお祝いして大町の人たちが大八車に太鼓を積んで街中を練り歩いたのがおこりといわれています。

城下町村上ならではの勇壮にして華麗な祭り。
彫刻を施し、村上伝統の堆朱・堆黒の粋をこらしたオシャギリ
その中には、二百年以上前のものもあり、まさに絢爛!

7月6日(宵祭り) ・ 7月7日(本祭り)

引用元:町屋から眺める村上大祭|伝統・絢爛・情熱 村上大祭|おすすめ情報|村上市観光協会 -鮭・酒・人情 むらかみ-
西奈彌羽黒神社の神幸祭は、寛永10年6月7日、臥牛山の中腹から現在地へ遷座されたことを記念して行われている年中行事です。またこの羽黒神社の遷宮をお祝いして、大町の人たちが大八車に太鼓を積んで町じゅうを練り回したのが、村上大祭の始まりと伝えられています。

村上大祭に曳きだされる山車のことを村上では「おしゃぎり」と呼び、羽黒神社の遷宮をお祝いして、大町の人たちが大八車に太鼓を積んで町じゅうを練り回したのが、村上大祭の始まりでしたが、今では彫刻や堆朱・堆黒を施した豪華な屋台となっています。



「おしゃぎり」の呼び名の由来は、歌舞伎や狂言で、鉦や太鼓で演奏される音曲やお囃子のことを「しゃぎり」というところから来ているものとも言われています。

村上特産の村上木彫堆朱、堆黒の枠を集めた「おしゃぎり」と呼ばれる19台の屋台と荒馬(木馬)14騎が各町内をねり歩く羽黒神社の祭礼。約300店の露店も並ぶ。オシャギリの中には、200年以上前から現存しているものもあり、まさに絢爛たる美しさです。

「にいがた総おどり」は、感動ある踊りを通じて、次の世代の子どもたちのために、より良い未来を創りだそうとする「踊りのお祭り」

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今から約300年余り前、新潟に五穀豊穣と無病息災を願って、三日三晩、踊り明かす祭があったそうでです。 当時は、町中の橋の上で小足駄という歯の部分が溝に堅木を差し込んで作られることから「差し歯」とも呼ばれる下駄のようなものをはき、樽を叩いて、そのリズムに合わせて自由に踊る祭であったという。



明治になり、その祭りは祭禁止令によりなくなってしまったが、2002年に市民県民が一丸となって当時の自由な踊り祭を復活させた。「にいがた総おどり」祭でです。最近は全国各地から踊りの団体が参加し、今ではエネルギッシュな踊りが繰り広げられる華やかな祭となりました。

ジャズダンス、Hip Hop、クラシック、サルサ、民謡、よさこい、IZANAI、ミュージカル調、ベリーダンス、コンテンポラリー、フラ、ボールルーム等、どんなジャンルの踊りでも参加できます。新しい踊りや演出、ジャンルなど、にいがた総おどりに新風を吹かせるチャレンジ精神をもった皆さんの参加をお待ちしています。きっと、心動かす大きな感動につながることでしょう。
祭りの舞台は、商店街ですので会場毎の個性があります。飲食屋台やさまざまなブースが出展し、演舞エリアが広いメイン会場、踊り子との距離が驚く程近い会場、町の風情あふれる会場。来場される皆さんは、チームを応援しながら各会場を観て回って、お気に入りのお店やお土産を見つけたり。毎年参加している踊り子さんには「おかえりなさい」と声がかかったり、演舞をねぎらう手作りの差し入れがあったり。そんな商店街の方との交流も魅力のひとつです。

引用元:にいがた総おどりとは | にいがた総おどり
その他にも、中越震災や水害をきっかけに県内踊りチーム主体で始まった、上・中・下越3地域での絆「地域合同連」や、チーム・地域を超えて、感動をつくるため、ひとつになる「合同演舞」もあり、他県の踊り祭りにはない活動を展開しています。

「二本松の提灯祭り」1台に300余の提灯をつけ7台の太鼓台が情緒豊かな祭り囃子の調べに合わせ市内を練り歩くさまは壮観

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二本松提灯祭りは、日本三大提灯(ちょうちん)祭りの一つで、祭り行事全体が県の重要無形民俗文化財の指定を受けた、360年余の伝統を誇る二本松神社例大祭で、1基に約300個の紅提灯をともした7町の太鼓台が、震災復興を願いながら秋の城下町の夜をかざります。宵祭りでは7町若連による「呼び起こし」の儀式が行われ、同神社で御神火を受けた各町の若衆が出発地点の旧亀谷ロータリーに向かい、7台の太鼓台に提灯がともされます。



提灯祭りのみどころは、宵祭りと例大祭の最も重要な行事である「神輿渡御」。宵祭りは各町内から鈴なりの提灯をつけた7台の太鼓台が繰り出し、二本松神社のかがり火を紅提灯に移します。太鼓台は市内を勇壮に威勢のいい若連の掛け声とお囃子を奏しながら練り歩き、夜空を赤々と焦がしながら移動する3千もの提灯は見物客まで熱くします。神輿渡御では、神社では神輿の宮入が行われ、夜は各町内に戻った太鼓台が再び提灯をつけて、字内を練り歩きます。

二本松提灯祭り(にほんまつちょうちんまつり)は福島県二本松市にある二本松神社の例大祭。日本三大提灯祭りの一つに数えられており、その祭礼囃子は、福島県重要無形民俗文化財に指定されている。また2011年に祭り自体も福島県重要無形民俗文化財に指定された。
毎年10月4日 - 6日に開催される。伝統300余年、7台の太鼓台(本町(もとまち)・亀谷町(かめがい)・竹田町・松岡町・根崎町・若宮町・郭内(かくない))にそれぞれ300個余りの提灯をつけて町内を曳き回す。
同じ二本松藩内の同様な祭礼として、本宮市の安達太良神社(本宮明神)祭礼の太鼓台、北部先囃子、南部先囃子、東部太鼓台、郡山市の安積国造神社(郡山八幡)祭礼、二本松市小浜の塩松神社祭礼などがある。

引用元:二本松提灯祭り - Wikipedia

日本三大喧嘩祭に数えられる由緒ある「飯坂けんか祭り」神社境内で屋台同士が激しくぶつかり合う

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奥州三名湯の飯坂温泉にある飯坂八幡神社(いいざかはちまんじんじゃ)では、毎年10月に、「八幡神社例大祭」が行われます。この例大祭は、「飯坂けんか祭り」と呼ばれ、大阪・岸和田の『地車祭り』、秋田・角館の『飾山ばやし』とともに「日本三大けんか祭り」の一つといわれています。
 祭りのクライマックス「宮入り」では大勢の若者達に担がれた6台の太鼓屋台が激しくぶつかり合いながら神輿の宮入りを阻みます。

引用元:福島を観光する | 一般社団法人 福島市観光物産協会公式ページ こらんしょふくしま
八幡神社の地元にある地域(宮元)には、『上町』・『さい花』・『立綱』・『若錦』・『横町』・『滝乃川』 と6地区がそれぞれ屋台を繰り出しています。6台の屋台がトーナメント形式でそれぞれ屋台の前棒をぶつけ合い押し合いをして押された方が負けとなります。屋台の中には太鼓があり中で太鼓をたたき続けています。 太鼓が止まったら負けになるのでどんな事があっても太鼓を打ち続けています。激突の時や前棒がせり上がって天高くなっても下で太鼓の打ち手を抱き上げても撃ち続けるのです。太鼓の音が祭りを盛り上げますね、見ている観客も『押せ・押せ』などと声援を送ってます。

ぶつけ合いで重要な役割をするのは、屋台の前棒を担ぐ「華棒(はなぼう)」と呼ばれる役です。人数は10人程度で、ぶつけ方を熟知しているベテランが配置されます。後ろの担ぎ棒の「後棒(あとぼう)」には、10代の若者や初めて屋台を担ぐ初心者が付きます。これら担ぎ手たちを屋台の屋根の上から指示するのが、祭りの花形と言われる頭(かしら)です。屋根の上の前方に乗った頭は華棒に、屋根の上の後方に乗った頭補佐役は後棒の担ぎ手に、「上げろ」「下げろ」「引け」「担げ」といった指示を出します。屋台の中では太鼓の打ち手が宮入りの間中、休むことなく大太鼓と小太鼓を打ち続け、仲間の士気を鼓舞しています。

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祭りの中日(なかび)の夜、渡御(とぎょ)で各町を回っていた神輿が、氏子各町の担ぎ屋台に付き添われて神社にお戻りになる宮入りが行われます。このとき、神社境内で屋台同士が激しいぶつかり合いをすることに由来します。ぶつかり合いが行われるようになったのは、昭和8年(1933年)の宮入りのとき、境内の神輿殿に神輿がおさまると祭りが終わってしまうというので、それを防ごうとした2町の屋台がぶつかってしまったのがきっかけだといわれています。戦時中は自粛されていた祭りが戦後再開されてからは、戦争中のうっぷんを取り戻すかのように屋台のぶつかり合いはどんどん激しくなり、神輿を壊してしまったり、多くの怪我人を出したりしましました。新聞記者が記事に"これはまさしくけんか祭りだ"と書いたことから、けんか祭りという呼び名が広まっていきましました。その後、宮入りを担ぎ屋台で行うのは危険だということになって、中日の神輿渡御で神輿を先導する役の4輪車のついた引き屋台で宮入りをすることになりましました。しかし、屋台のぶつかり合いがないのは飯坂の祭りではないという声が上がり、担ぎ屋台に戻る町もあったりして、各町の足並みがそろわない時期もありましました。そこで全町で話し合った結果、2002年から宮入りは昔どおりの担ぎ屋台で行うことになりましました。

飯坂八幡神社例大祭「飯坂けんか祭」は、愛媛県新居浜市の「新居浜太鼓祭」、佐賀県伊万里市の「伊万里トンテントン祭」とともに、日本三大喧嘩祭に数えられる由緒あるお祭で、そのお祭の起源は定かではないものの、太鼓の調べは京都の祇園囃子の流れを汲むという、約300年余の歴史があると伝わっています。

祭りの歴史は定かではないが、太鼓の調べは京都・祇園囃の流れを汲み、300年余の伝統を誇る。「下がり半」「三切り」「流し」「宮入り」の4種類の打法があり、儀式太鼓の風格と勇壮さを今に伝え祭り太鼓保存会や小学校の太鼓クラブによって郷土の伝統文化が受け継がれています。

煌びやかな衣装に身を包んだ花嫁姿の女性が練り歩く「会津田島祇園祭」

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会津田島祇園祭は、毎年 7月22日〜7月24煌びやかな衣装に身を包んだ花嫁姿の女性が練り歩く七行器行列(ななほかいぎょうれつ)、勇壮に駆ける4台の大屋台運行、また屋台上での歌舞伎の熱演など、見どころがある夏まつりです。国の重要無形民俗文化財に指定されています。

田島祇園祭の由来

 今から約800年以上の昔、鎌倉時代の 文治年間(ぶんじねんかん)に、この地方を治めることになった長沼五郎宗政(ごろうむねまさ)が、旧地で信仰の厚かった 牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男(すさのお) 命(みこと) を奉 斎(さい)し、 天王社(てんのうしゃ)として祭ったことが始まりで、その後、今から400年前の慶長8年に、領主長沼盛実が京都八坂神社に準じた祭礼格礼を取り入れ、「祭の決まり」を定めて、現在の祇園祭に至ったとされています。 
  祇園信仰は疫病から守ってもらう祈りや、自分たちの元にこないように祓ってもらう信仰です。
  伊達政宗が会津を支配した時代に、一時、祭は出来なくなりましたが、祭礼を定めた慶長8年に住民が当時の城代(じょうだい) 小倉作(おぐらさく)左(ざ)衛門(えもん)にお願いして、祭が再興されました。当時は、天王祭と呼んで6月15日に行われていたようです。
  明治4年、天王社は田出宇賀神社に合祀となり、田出宇賀神社例祭が祇園祭と合併の祭日となりました。
 更には熊野神社の例祭日が明治12年に同一日になるなど、様々な改変を重ねてきましたが、祇園祭の伝統は、牛頭天王奉鎮以来の社家である現宮司室井家により、脈々と今に伝わり、その礼式が保持されています。
  このように、現在の祭礼の形態は幾多(いくた)の変遷(へんせん)を重ねてきていますが、慶長の復興願いの「しきたり」が基本となっているといわれています。

引用元:会津田島祇園祭
約800余年の歴史と伝統を誇る会津田島祇園祭が3日間にわたり開催されます。呼び物の「七行器行列」は、別名「花嫁行列」とも呼ばれ、シャンギリというお囃子が流れる中、花嫁姿の女性が神社に向かって行列します。そのほか、シャンギリの笛太鼓とともに歌舞伎の大屋台曳きが行われる「大屋台運行」「神輿渡御」「子供歌舞伎」などが行われます。お党屋制と呼ばれる古式ゆかしい行事を通して、郷土の誇り高き伝統が感じられるお祭りで、昭和56年に国の重要無形民俗文化財に指定されましました。

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