スポンサード リンク青梅大祭(おうめたいさい)は、「住吉大明神の御祭礼」と言われいたが、その後「住吉御祭礼」になり、現在は「住吉神社青梅大祭」と呼ばれています。600年の歴史を持つ青梅の大祭は、神輿が中心であったが、喧嘩が絶えないため、明治になって山車が作られたといわれています。
平成25年の青梅大祭は、5月2日~3日に盛大に挙行されました。
引用元:ごあいさつ
江戸時代後期には既に町内単位で祭礼が行われていたが、明治に入り、東京で運行できなくなった山車を買い付けて曳き回すようになったのが、青梅大祭の始まりだといいます。使えなくなった山車は、青梅市、川越市、熊谷市、鴨川市などの江戸周辺の地方都市に売り払われたため、今となっては貴重な江戸・天下祭の山車人形(だしにんぎょう)は、これらの地方都市に行かないと見ることができなくなった。
青梅は、商業で栄えた一大宿場町です。青梅の鎮守様である住吉神社の祭礼は江戸時代後期に既に行われていたことが確認されており、それは町民主体の祭礼行事でありました。神輿、芝居興行などが賑やかに行われ、遠方からも人が集まり、当時の紀行文に掲載されるほどの有名な祭だったようですが、公儀の取り締まりを避けるために公式的な記録は残されず、詳細はほとんど伝わっておりません。
多摩川の左岸(北側)を走る青梅街道に沿って細長く広がる青梅市は、江戸時代、商業で栄えた一大宿場町であった。機織物で栄えた古くからの祭礼町であった旧青梅の市がたっていた宿(しゅく)の住江町(宮本)、本町、仲町、上町、森下町)にて行われていたようです。
青梅宿の総鎮守である住吉神社の氏子5町内(住江町すみえちょう・本町ほんちょう・仲町なかちょう・上町かみちょう・森下町もりしたちょう)(旧祭礼町)が江戸型山車を購入し、しばらく巡行していたが、やがて青梅にも電線が張り巡らされるようになると、人形を下ろし、山車は屋台の形式に改造されました。
その後、旧祭礼町以外の住吉神社氏子4町内(滝ノ上町たきのうえちょう・天ヶ瀬町あまがせちょう・大柳町おおやなちょう・裏宿町うらじゅくちょう)、戦後には氏子外3町内(勝沼町かつぬまちょう・西分町にしわけちょう・日向和田ひなたわだ)が加わり、現在は12町内が青梅大祭に参加しています。
出発の合図が様式化され、豪華な祭り衣装をまとった拍子木は憧れの大役であり、独自の発展を遂げてきた青梅大祭の一つの特徴である。
機織物で栄えた古くからの祭礼町であった旧青梅の市がたっていた宿(しゅく)の住江町(宮本)、本町、仲町、上町、森下町の五町の豪商などが、江戸の人形が乗った三層高欄を東京・神田などから購入し祭りの華となっていた。
戦後祭りは盛んになり、五町に加えて滝ノ上町、大柳町、天ケ瀬町、裏宿町の四町も山車を作り、その後昭和25年頃からは、青梅市に隣接する村の勝沼、西分、日向和田も住吉神社の祭礼に合わせて山車を曳くようになり全12台の豪華な山車の曳行が始まった。
当時の山車は二重高欄に、原舟月、仲秀英など江戸一流の人形師の手による人形を載せたものだったが、電化に伴い巡行が困難になり、明治43年の祭礼を最後に鉾台型山車から屋台型山車に改造されました。
祭りの舞台となるのは、旧青梅街道の一本道で両脇には多くの出店が並び、道の各所に祭礼事務所(神酒所)や山車人形を飾った人形場があり、あちこちで交わされる挨拶、曳行される山車、色々な提灯に飾られた懐かしさを感じる町並みなど、この一本道にさえおれば祭りを見逃すことなく楽しめるという安心感と、一本道に集中している興奮を味わえます。
http://ma2ri.iku4.com/Entry/32/青梅大祭は、甲州裏街道とも呼ばれる青梅街道の宿場町青梅の最大の祭り